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赤ちゃんのためのお粥の米作り

​生産者たちのこだわり

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酒井昌弘・菊代
兵庫県丹波篠山市​
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43年間、一度も農薬を使っていない土地が宝物。二人三脚で有機農業を営む酒井さんご夫婦

 兵庫県丹波篠山市で有機農業をおこなっている酒井さんご夫婦。はじめは菊代さん一人で、その後は会社を退職した昌宏さんと二人三脚で野菜やお米を育てています。


アレルギーの子が、安心して食べられるものを

 

 酪農を営んでいた菊代さんの実家。牛乳を出荷していましたが1960年代の初めに、たい肥などの環境問題に直面しました。
酪農を続けるかどうかで悩んでいたちょうどその頃、日本でも有機農業の運動が始まります。そこで知り合った消費者団体の方との縁で、有機農業を始めました。
 もともと公務員として働いていて、農業を継ぐつもりはなかった菊代さん。有機農業を継いだきっかけは息子さんの病気でした。
 「小児病棟で知り合ったお母さん方に『アレルギーがひどくて何も食べられない子どものために、あなたが食べ物を作れたらそれが一番ええやないの』と言われた。それがわたしの人生を変えました。みんなが安心できるお米や野菜をつくろうと覚悟を決め、父の有機農業を手伝うために仕事をやめました」
 どんなに虫が食っている野菜でも必ず買い上げてくれるという契約で消費者団体と付き合いを始めてから43年。農薬と化学肥料を一切使わず農業をしてきました。一般的な農業と比べて収穫量は3分の1ほどです。
 「いつも収穫の時に主人と喧嘩するんですよ『もうやめじゃー!コメはもう作られへん!』って。確かに農薬や化学肥料を使えば量も増えるし収入も安定する。でも43年も農薬を使ってこなかった土地に今さら農薬を入れるなんてできませんよね」菊代さんの言葉に間髪入れず昌宏さんが続けます。
 「ひとつも農薬が入っていないこの土地が、我々の宝やからな」

子どもたちと寄り添う仕事につながった
 

 「これからは有機の時代だ」と言い続けて43年。日本ではなかなか浸透しない有機農業が、2020年のオリンピックに向けて変わってきたように酒井さんは感じています。理由は、オリンピックの選手村ではオーガニックのものしか使えないから。酒井さんのところにも農林水産省から有機野菜やお米を出荷できないか問い合わせが来たそうです。

「小規模でやっているわたしたちに問い合わせがくるぐらい、日本には有機のものが少ないんです。それでも関心のある人たちが増えているとは感じます」
 インターネットの普及やオリンピック対策で少しずつ広がる有機の輪。その中でも若い女性にもっと広がってほしいと酒井さんは考えています。
 「農薬が一番影響を及ぼすのは、お母さんから栄養をもらっている赤ちゃん。だから若い女性やお母さんたちに安全なものを食べてほしい」
 共働きが当たり前となった現代において、食事にかける手間や時間は昔より少なくなりました。一方で元気な赤ちゃんを産みたい、子どもを健康に育てたいという思いは多くの女性に共通するもののはずです。

 「グリーンマインドの離乳食の話を聞いたとき、すごくうれしかった。自分たちのやってきた農業がようやく、長い年月をへて(離乳食という)子どもたちに寄り添う仕事とつながった気がしたんです」
 4世代で同居している酒井さん。4歳のお孫さんは有機のお米と野菜を食べて元気に育っています。「小さいころから良いものを食べてほしい。そして将来の妊娠・子育てに備えてほしいと思っています」

次世代につなげる有機のたすき

 

 高齢化が進み多くの農家が農地を手放す中、有機農業は少しずつですが着実に、若い世代に引き継がれています。
 「10年ほど前、若い女性が有機農業を学びに来た。大企業に就職したのに退職して『これからは農業の時代ですよ』と毎日通ってきていた。3か月もしたら飽きるやろうなぁと思って見ていたのに、毎日来て勉強を続けて、今では同じ丹波篠山で有機農業より厳しい自然農業をやっている。結婚もして、楽しそうにやっているよ」
 実はその女性は、酒井さんが野菜を届けていた先の娘さんなんだそう。酒井さんの野菜を食べて育った子どもがこうして農業を始めたように、どんどん有機農業のたすきが繋がっていけばこれほど理想的なことはありません。それ以来、酒井さんは畑を貸し出して、有機農業を学びたいと希望する人を研修生として受け入れています。


パートナーがいるからできる

 定年退職後、菊代さんの農業を手伝い始めた昌宏さん。退職金で農作業に使う機械を買い揃えたそうです。
 「中古品買うの嫌いやから退職金で全部新品買ったんや。あのお金がなかったら機械揃わんかったなぁ。機械に使うお金を惜しんだら農業はできんわ」とぼやく昌宏さんと、「理解のある夫がいるからやっていけるんよ。お父さんめっちゃ資材投資してくれたもんね」と笑いながら話す菊代さん。
 川柳をたしなむ昌宏さんとゴスペルが趣味の菊代さんは一見、正反対のようですがふたりのやり取りは息がピッタリ。まるで夫婦漫才のようでした。その姿に、ふたりで共に歩んできた時間の長さを感じます。
 「農業はひとりではなかなかできない、パートナーがいるからできる」


 文=さかたえみ 撮影=山見ミツハル

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井関俊輔
兵庫県丹波篠山市
※2020年産米から使用
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古くて新しい「通勤農業」
親子三代で引き継がれてきた「あいがも農法」

大阪府池田市から兵庫県丹波篠山市まで一時間半の通勤をしながら米作りに励むのは、江戸時代から続く農家、井関農園の井関俊輔さん。
当時はもちろん、今もなお、新しい農業のスタイルとして注目される「通勤農業」は、俊輔さんのおじいさんの代から実に二十年以上続けられているのです。

 俊輔さんのお父さん、そして俊輔さんが先代から引き継いだのは、ただの米作りではありません。
それは、アイガモと共に育てる米づくり、「あいがも農法」でした。


無農薬米から有機J A S米へ

 井関農園では、甲子園三個分の農地約十四ヘクタールのうち、約七ヘクタールであいがも農法による有機栽培で米作りをしています。

 俊輔さんのおじいさんが始めたあいがも農法による無農薬による米づくりが転機を迎えたのは、ある大手化粧品メーカーからの依頼でした。
 当時はまだまだ流通していなかった無農薬米を原材料として扱いたいという依頼です。そこで求められた無農薬米の証明として有機J A S認証を取得することとなりました。
 以来、親子三代にわたり脈々とその意思が引き継がれているのです。


命の循環が実現した無農薬米栽培

 

 あいがも農法とは、まだヒヨコのアイガモを、水を張った田んぼで育て、米の成長を脅かす害虫や雑草の種をヒヨコたちが食べることで、農薬や除草剤を使わず無農薬でお米を作ることができる農法のことです。
 田んぼに放たれたアイガモたちは、縦横無尽に元気いっぱいに泳ぎ周るので、田んぼの水はいつも濁っています。太陽の光が水の中の土にまで届かないので雑草の発芽を防ぐ効果もあるそうです。そしてたくさん害虫を食べるアイガモたちの糞もまた肥料となり稲の成長の糧となります。

 アイガモのおかげで、「害虫」と呼ばれていた虫たちは、ヒヨコたちにはなくてはならない自然の恵みとなり、養分という大切な資源に生まれ変わらせ循環します。そうしてできたお米もまた、「捨てるところがないんです」と語る俊輔さん。
「成長した稲ワラはまた土に戻り、もみ殻はアイガモたちの寝床となります。ぬかも田んぼの温床に使われるなど、全てが稲とアイガモにより自然の生態系の中で繰り返される命の循環となっているのです。」と語ってくれました。そして、そのことを子どもたちに伝えられる事が一番嬉しいと言います。


子どもたちに伝えたいことは
食べることの大切さ


 そう、俊輔さんは、かつては学校の先生でした。
教師をされていた時、朝ご飯を食べてこない子どもたちの多さに驚いたと言います。夕食をきちんと食べない子など、「食事」への意識の低さにショックを受け、子どもたちに「食」の大切さ伝えようと意識するようになりました。そして作り手としてそれを実現させたのです。




 

 グリーンマインドとの出会いは、俊輔さんにお子さんが生まれ、離乳食に追われる日々の中で、「子どもたちへの食育といえば離乳食なんじゃないか」と思っていた矢先のことでした。

 

 「交流会の参加リストにグリーンマインドの赤ちゃんのためのお粥を見て「これだ!」と思いました。子どもたちが最初に口にする食べ物として、アイガモたちと育てたお米が届けられるのは感激。子どもの頃に食べた「食」の記憶は、ずっとその子の感性や味覚に刻まれるものなんだと、自分の子どもを見ていてもそう思います」そう語る俊輔さんのお子さんが毎日食べるほどの大好物はトマトだそう。なんでも初めて食べたトマトが、農家仲間が届けてくれた採れたてのトマトだったそうです。

 

優しき若きリーダー

 

 アイガモたちが、ピーピーと元気よく鳴きながら泳ぎまわる姿は可愛いし癒されます。除草や農薬散布の手間がない分、その裏ではアイガモの成長、水の管理、稲の成長、全てのバランスとタイミングが重要になってきます。 アイガモを守るための柵も設置も容易ではありません。 「楽しそうに見えますけど、結構大変なんですよ」と語る俊輔さんは苦笑いを浮かべながらも、「今や食の安全は当たり前。その中でも安心して食べてくださいと自信を持って言えるものを提供し続けたい」と。

そう語りながらヒナたちが泳ぐ姿を見守る眼差しはとても優しく、見学に訪れた子どもたちも同じように優しく包み込んでくれました。

 自然にも人にも優しいあいがも農法と俊輔さんら親子とは、一見ギャップを感じるほどの最新式の機械が所狭しと並ぶ倉庫はアーティストの卵たちが描いてくれた風の神様が守ります。

 多くの人を心を魅きつけてやまないその姿は頼もしく、これからの農業を担う若きリーダーの力強さを感じました。
 文=chizuko 撮影=ひさかず

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上/2,000羽近くの相棒たち。
全ての田んぼにはピアノ線が張られ、タカやカラスから雛たちを守る。


下/倉庫の壁に描かれた風の神様に見守られて。

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宮垣良一
兵庫県丹波市
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学びと工夫を重ねたたい肥でお米を作る、有機農業を楽しむ・宮垣良一さん

 早くから有機農業に取り組み、安心でおいしいお米を消費者に届けている氷上町鴨内の宮垣農産。その25年以上続く有機の知識と技術を引き継ぎ、さらに進化させようと果敢に挑んでいるのが宮垣良一さん(44歳)です。良一さんのお米作りにかける思いは、いったいどのようなものなのでしょうか。


父の理論を引き継ぎ、実践し、発展させる

有機農業を始めたのは、良一さんのお父さんである富男さんです。「作物に良く効く農薬が人間にも効いてしまうのではないか」という不安を抱き、昭和の終わりごろから有機農業に取り組み始めました。「当時は有機は御法度やったんや」と笑いながら振り返る富男さんは、時には逆風が吹く中、学びと工夫を繰り返して、大規模経営での有機農業の基礎を作り上げました。
 その基礎を引き継ぎ、実践し発展させているのが息子の良一さんです。
 「良い作物は良い土から生まれます。作物の根っこが良いと、自然と土から上も良くなる。白い、太い根っこを目指して、土づくり、たい肥作りに取り組んできました」 土壌分析を繰り返し、様々な成分をうまく配合することによって作られた宮垣さんのたい肥は、有機100%。驚くことにたい肥特有のにおいがありません。そのため虫が寄ってこないといいます。安心でおいしいお米を作ろうと、富男さんの理論に良一さんの分析と実践を重ねて生みだしました。このたい肥を使って作った稲の根は、収穫後も白く太く張っているそうです。
 化学肥料と農薬を使って大量に作物を収穫する省力型農法と比べて、有機農業は手間と時間がかかります。お父さんの基盤があるとはいえ、良一さんはどうして有機農業を引き継ごうと思ったのでしょうか。

 

できないことをできるようにする、それが面白い 

 「普通の農業だったら、もしかしたら農業をやっていなかったかもしれません。有機、無農薬、美味しさ……難しいけれど、そのこだわりがあるからこそやろうと思いました」困難やこだわりがあるからこそ始めた。
意外な答えに驚きました。
 「もちろん続けていく中で、いくらでも課題が出てきます。でも日々出てくる課題をどうクリアしていくか、考えるのが楽しい」そう語る良一さんの表情には、まるで暗さがありません。

​ 「僕はあんまりしんどいとは思わないです。ゼロから始めたおやっさんは、もちろん大変だったと思いますけど」有機農業は大変だという一般的なイメージは、良一さんにはあてはまりませんでした。 「今年の結果が芳しくなければ、来年は別の栽培方法をとるかもしれない。そうした工夫で収穫量が増えたり、味がおいしくなったりします。できなかったことをできるようにしていくことは、とても面白いですよ」 試行錯誤を繰り返しても、結果が見えないことはよくあるといいます。普通ならそこでやめたくなってしまいそうですが、良一さんからは「それは仕方ないことだと割り切って次を考えます。勉強が足りなかったと反省ですね!」と潔ささえ感じる答えが返ってきました。

手塩にかけて育てたお米だから、責任をもって届けたい


 手間と時間のかかる有機でのお米作りですが、続けていてよかったと思える瞬間はやはり「おいしく出来たり、たくさんとれたり」したときだそうです。
 「一生懸命世話をすればするほど、お米はおいしくなります。逆に手を抜くと、それがもろに味に出てしまう。おいしいお米ができたときは、手間をかけた分だけ結果が返ってきたようで、とてもうれしい気持ちになります」
 さらに良一さんは、作ることだけで満足するのではなく、責任をもって自分のお米を消費者に届けようと考えています。例えば作業場にあるお米の乾燥機。以前はどこの農家にもあったそうですが、今は乾燥機をもっている農家さんは珍しいそうです。
それでも宮垣農産が乾燥機を持ち続ける理由は「誠実であるため」です。
 「他の所にお米を持ち込んで乾燥してもらうと、別の農家さんのお米と交じってしまうからダメなんです。自分が手塩にかけて育てたお米だからこそ、誠実に消費者に届けたいと思うのは当然です」
 精米したてのお米は艶があり、透きとおっていました。終始おだやかな口調だった良一さんが、器からお米を掌に移すときだけは「こぼしたらだめですよ!」と少し強い口調に。お米の一粒ひとつぶを大事に思っていることを象徴するシーンでした。
安全で、よりおいしいものを 定期的に勉強会に参加したり、農家同士で情報を共有したりするなど、お米作りを良くするための努力を惜しまない良一さん。
 「先日参加した勉強会で、二酸化炭素の濃度……つまり空気の影響についての話を聞きました。今までは土づくりのことばかりを考えてきたけれど、これからは別の視点からも考えないとな、と思いました」新たな可能性にワクワクしているようにも見えました。
 よりおいしいお米を目指して、宮垣良一さんのお米作りへの探求心は冷めることはありません。
 文=さかたえみ 撮影=山見ミツハル

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藤本和幸・節代(藤本ファーム)
兵庫県三田市
※2019年産米まで使用
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安心と安全を、次世代につなげたい。未来を見据えて有機農業に取り組む藤本さんご夫婦

 兵庫県三田市で有機農業を営む藤本さんご夫婦。当初は農薬や化学肥料を使った一般的な農業に取り組んでいましたが、6年前から全面的に有機農業に切り替えました。そこには家族への大きな愛と、将来の農業に対する憂いがあります。


きっかけは「農薬の霧」に消えていく妻の姿

実家を継いで農業を始めた節代さんをサポートするため会社を退職した和幸さん。
共に作業をするなか、節代さんが農薬を散布している姿に不安を抱いたといいます。
 「農薬を散布すると、まるで一帯が『農薬の霧』に包まれたように真っ白になります。その霧の中に消えて見えなくなる家内の様子を遠くで見ていて、こんなやり方で食べ物を作っていて本当にいいのか、と疑問に思うようになったんです」
 疑問を抱えながら毎日を過ごしていたとき、有機農業に出会いました。当初は、無農薬で本当に野菜が育てられるのか、虫害はないのかと懐疑的だったそうです。しかし化学肥料や農薬に対する疑念を解消するため、有機農業講座に1年通い実際に有機で野菜を育ててみました。
 「そしたらほんとにできたんです!虫もつかなかったし、これならいけるかもしれないと思いました」この成功をきっかけに、全面的に有機農業に切り替えることにしました。
 しかし今までの農業から一気に有機農業へ切り替えるということは、とても大きな決断です。有機農業に大切な土づくりに要する期間は、最低でも3年。安定するまで収穫量も収入も減ります。有機農業へ切り替えることに不安はなかったのでしょうか?


誇りをもって安心・安全を届けたい

決断を後押ししたのは、藤本さんの作った野菜を食べる子どもたちの姿でした。
 「うちで作っている『子どもピーマン』は、生でも食べられるのが特徴で、テレビで取り上げられたことがありました。そのピーマンを子どもたちが生で食べている姿を実際に目にした時に、安心安全なものを作っていきたいと改めて強く思ったんです」。

 「好きで始めた農業だから、誇りをもってやっていきたい。そう思って続けるうちに少しずついいものができて、収穫量も増えていきました」

食に無頓着な日本

 

 日本は海外と比べて、農薬に対する規制が緩いという一面があります。しかしほとんどの人は「国産は安全」というイメージを持っているため、そのことを知りません。

食べ物がどのように作られているのかということにも関心がありません。藤本さんはそこに危機感を抱いています。
 「ふだん食べるものについて、もっと意識してほしい。自分の体は食べたものでできていて、それが赤ちゃんに引き継がれていくんです。もちろんすべての人に農薬などのリスクがあるわけではないでしょう。
影響を受けるのは何千人に一人という確率かもしれない。それでも、その一人を生み出さないために無関心でいてはいけません」
 藤本農園は、野菜の栽培をメインにおこなっており、お米の出荷量はそれほど多くありません。そんな貴重な、丹精込めて作られたお米がグリーンマインドの離乳食に使われています。「グリーンマインドの離乳食は、有機農業で作られたお米と水だけで作られている。それを聞いたとき、同じ思いを共有しているパートナーだと思いました」
 安心・安全なものを食べるということは自分の健康だけでなく、先の世代の健康にとっても大切なことです。そのことを伝えるために「難しいとされる有機農業を、自分たちが継続していくことが使命だ」と藤本さんは考えています。
 「自分たちが有機農業を続けている姿を見てもらえれば、いつかみんなにわかってもらえる。そして若い人たちも有機農業を始めようと思ってくれるだろう」と。将来の子どもたち、農業の未来を語るその表情は凛としていて、使命を背負う決意の強さが伝わってきました。


選ぶのはわたしたち、一人ひとり

 

 インターネットの普及などで、若い人たちが食について考える機会が増えてきました。藤本さんは、自分たちの取り組みを次の世代に伝えようと、インターンシップの受け入れや食育の話などを定期的におこなっています。
 「子どもたちの健康の基礎、将来の環境を作るのはわたしたちです。病気になったり環境が汚染されたりしてから後悔しても取り戻すことはできません。何を選ぶかはわたしたち一人ひとり。一緒に未来を考えていければ」そう語る藤本さんご夫婦の前には、黄金色の稲穂がまぶしく輝いていました。
 文=さかたえみ 撮影=山見ミツハル

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